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神のしるしとして

2021年1月24日(日)メッセージ

イザヤ書20章1-6節

「神のしるしとして」


 先週私たちは、あのエジプトが、どのようにしてイスラエルの神主を証しする国になっていくのかについて学びました。元々エジプトでは、非常に多くの神々が信仰されていました。今の日本とそれほど変わりません。ところが、そんな彼らが、主なる神様を証しする国へと変えられていく、イザヤはそう預言するわけです。ただ、こうした出来事は、ずっと後の時代になって起こる事でして、その前に彼らは、非常に厳しい現実を通らされることになります。それがこれから学ぶ箇所に書かれています。

 今日私たちが学ぼうとしている箇所には、非常に大胆な方法で神の言葉を語った預言者イザヤの姿が描かれています。では、彼は一体どんな方法で預言をしたのでしょう。

1節:アッシリアの王サルゴンによって派遣されたタルタンが、アシュドデに来て、アシュドデと戦って、これを攻め取った年のこと。

 紀元前711年頃のことです。地中海沿岸から約五キロ入ったところにあるペリシテ人の町の一つにアシュドデという場所がありました。新約聖書ではアゾトという名で登場してきます。ここにサルゴンという人物によって派遣されたタルタンが攻めてきます。ちなみにこのサルゴンという名には「真の王」もしくは「正当なる王」という意味があります。日本人の感覚で彼の名を聞くと、どこかの芸人の名前かと思ってしまいますが、名前の意味自体は極めて真面目です。彼は紀元前722年から705年までアッシリア帝国の王として国を治めた人物でした。また、彼から遣わされたこのタルタンという人物ですが、この言葉は軍の最高指揮官を意味する言葉です。彼が率いるアッシリアの軍勢がアシュドデを攻めた時、この町は攻め取られてしまいました。丁度この時期、主の言葉がユダ王国にいた預言者イザヤの上に下ります。

2節:当時、主はアモツの子イザヤによって、すでにこう語っておられた。「行って、あなたの腰の粗布を解き、あなたの足の履き物を脱げ。」彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いていた。

 非常に衝撃的な言葉がここに出て来ます。「行って裸になれ」皆さん、注意して読んでください。主は、単に裸になれとお命じにはならず、行って裸になれと命じられました。つまりユダの民の間に入って行き、その裸をさらけ出せということです。因みに「粗布を解き」という言葉ですが、注解書を調べてみましたら、完全な裸を意味するのでなく、ちゃんと下着は着ていたと書かれていました。今から約七年前程前になるでしょうか。「安心してください、はいてますよ」という言葉がはやりましたが、あの状態だというわけです。ただ、私個人としては、恐らく主はイザヤに、下着もすべて脱いで、完全に裸になれとおっしゃられたのではないかと理解しています。その理由はこの後出て来ます。いずれにしても、ここで問題なのは、なぜ主はこのようなことをイザヤにお命じになったのかということです。その理由が次の、3,4節に出て来ますので読んでみたいと思います。

3,4節:主は言われた。「わたしのしもべイザヤが、エジプトとクシュに対するしるし、また前兆として、三年間裸になり、はだしで歩いたように、そのように、アッシリアの王はエジプトの捕虜とクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にして、はだしのまま、尻をあらわにして、エジプトの恥をさらしたまま連れて行く。

 主がイザヤに、行って裸になれとお命じになった理由、それは、このイザヤの姿を通して、これから起こる事を人々に伝えるためでした。これから起こる事とはすなわちこの先エジプトやクシュ、つまりエチオピヤに、あのアシュドデを打ち負かしたアッシリアが仕掛けて来る攻撃のことです。その戦いは非常に激しかったでしょう。なぜなら、当時のエジプトやクシュも非常に強い軍事力を持っていたからです。ところが、結局彼らはアッシリアに打ち勝つことが出来ませんでした。結果、彼らの多くが捕虜、もしくは捕囚として本国へ連れて行かれることになります。その際、若い者や年配の者はみな裸にされ、尻をあらわにしながら連れて行かれるとイザヤは預言しました。分かりやすく言うなら、真っ裸ということです。本当に彼らは恥ずかしく、惨めな思いをすることになるわけです。主はこの出来事を、イザヤの姿を通して、インパクトある形でユダの人々に伝えようとされたのです。実際この預言は、アッシリアの王エサルハドンとその子アシュールバーン・アプリによる二度の攻撃を通して起こります。こうしてアッシリアは、当時のオリエントを初めて統一した国になるのでした。また、エジプトやクシュが破れてしまうことは、他国の人々にも大きな衝撃を与えるようです。それはどんな国の人たちだったのでしょう。

5節:人々は、クシュを頼みとし、エジプトを誇りとしていたゆえに、打ちのめされ、また恥を見る。

 この箇所によれば、エジプトとクシュが負けたことで衝撃を受けたのは、彼らを頼みとしていた人たちでした。「あの国に頼っていれば絶対に自分たちは大丈夫だ」と言っていたような人たちでした。ですから彼らはすっかり打ちのめされ、また、恥を見るようになるといいます。では、彼らは具体的に何と言って嘆くのでしょう。

6節:その日、この海辺の住民は言う。『見よ。アッシリアの王の前から逃れようと、助けを求めて逃げて来た我々の拠り所がこの始末だ。われわれは、どうして助かることができるだろうか』と。」

 この海辺の住民というのはアシュドデを含むペリシテの人々です。彼らはアッシリアに敗れたため、エジプトやクシュに逃れようとしますが、これから逃れる先も既にアッシリアによって攻め取られてしまったことを知り、絶望感に苛まれます。

 以上が今日の聖書箇所の大まかな解説です。では今日の箇所と聖書全体とを見比べた上で、私たちは何を学ぶことができるでしょう。三つあるのではないかと思います。

1.主の言葉はしるしによっても与えられる

 今日の箇所で最もインパクトが強い場面は、何といっても主がイザヤにお命じになった内容ではないでしょうか。「行って、裸になれ」主はそうお命じになりました。しかも、三年間も彼はこうした状態にいたわけです。なぜ主はイザヤに「いいかイザヤ、これから先、アッシリアがエジプトやクシュにも攻めて来て彼らを打ち破り、多くの捕虜を裸のまま本国へと連れて帰るから、そのことをユダの人たちに口頭で告げなさい」とお命じにならなかったのでしょう。なぜ主は、わざわざイザヤに裸を晒すようお命じになったのでしょう。その理由は、人間はいくら言葉で伝えても、なかなか理解できない、若しくは忘れる存在だからです。そのため、大きなインパクトを与える必要がありました。そこで主がお用いになったのが、イザヤの裸です。恐らくこれを見た人たちは、相当記憶力が悪くない限り、イザヤのことを忘れないと思います。

 そういうわけで、主は単に言葉だけを人に送ることはなさいません。それこそ、しるしをお与えになります。そのしるしは、神がお遣わしになる器である場合が多いのです。

 私たちの身の周りにも、しるしとして動いている人たちがたくさんいます。わざわざ、私は警察ですとか、私はマクドナルドの店員ですとか、私は医者ですと常に叫ばなくても、体格がよく、ヘルメットをかぶってパトカーに乗っていればだれでも警察とわかります。おしゃれな帽子をかぶって、耳にインカムを着けて店内を掃除していれば間違いなくマックの店員です。真っ白な服を着て聴診器を首に巻いていれば誰がどう見てもドクターです。同じように預言者イザヤが裸で歩くかぎり、それは何らかのしるしであるわけです。

 私たちの主イエスも同じでした。主は言葉だけで宣教活動を行うことはせず、病人を癒したり、悪霊を追い出したり、様々な奇蹟を行うことによって、ご自分が神から遣わされたことを証しされました。

 では我々クリスチャンの場合はどうでしょうか。果たして人々は、一目見ただけで私たちがクリスチャンだと認識できるでしょうか。そのようなしるしが私たちにはあるでしょうか。この点に関して、私自身本当に反省させられる部分が多くあります。

 イギリスの有名な牧師であるロイドジョンズがかつてこのようなことを述べました。「英国において、キリスト者の影響がしだいに減少している今日、社会全体の風潮もしだいに野卑になりつつある。上品さなど、わずかばかりの礼儀正しささえ、目に見えて失われている。キリスト者は、こういう生き方をすべきではない。「私はキリスト者です」とか、「キリスト者になるのはすばらしい」などと言いながら、時には粗野で無思慮な態度をとるといったことが、最近あまりにも多すぎる。このようにして、私たちは自分のありのままの姿を公表しているということを覚えようではないか。「態度がその人となりを公表する。」」

 神様は何も、イザヤのように裸になれと私たちにお命じになっているわけではありません。しかしながら、一方でキリスト者は、イエス様のことを述べ伝える使命だけでなく、イエス様の香りを放つしるしとしてこの世に遣わされています。そのことを覚えましょう。

2.真の恥は心のうちに存在する

イザヤの預言通り、エジプトとクシュは将来、アッシリアに敗れ、捕囚・捕虜の身となることになります。その際、彼らは最も恥ずかしい状態、つまり裸の状態にされてしまうわけです。ただですね、ここで皆さんに一つのことについて考えていただきたいと思うのです。なぜ私たち人間は裸であることを恥ずかしいと思うのでしょう。皆さん、是非私たちの周りにいる動物や空の鳥、水中にうごめく生き物を見てみてください。どれ一つとして私たちと同じように服を着ていません。最近は、服を着て歩いている犬をよく見ます。下手すると人間よりお金がかかっているのではないかと思うくらい華やかなペットを目にしますが、あれも結局は人間が自分たちで飾っているだけで、本人たちは別に服を着なくても不都合なことはありません。でも私たちの場合は違います。服を着ないと外に出れませんし、服を着ずに出たら悪い意味で新聞にのります。ではなぜ私たちは裸であることを恥ずかしく思うのでしょう。実は、人類が誕生した最初のころは、そうではありませんでした。聖書の中で最初に裸という言葉が出て来るのは創世記になります。創世記2章25節を見てみてください。”そのとき、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。”ここにある通り、神が人を創造された当初、彼らは、たとえ自分たちが裸であっても、そのことを恥ずかしいとは思いませんでした。ではいつから恥ずかしいと思うようになったのか。それは、神の掟に逆らった時です。絶対に食べてはならないと堅く禁じられていたあの実を食べたときからです。その瞬間彼らの目は開かれ、葉っぱで自分たちの身を覆い、神から身を隠すようになります。一体何が人間に起こったのでしょう。罪が心の中に入りました。

現に、私たちは自分たちの裸が人に見られるのを嫌がるのと同じくらい、自分たちの心の中が人に知られるのを好みません。その理由の一つは、私たちはそれぞれ自分の心の中にどれほど醜いものがあるか、恥ずかしい思いがあるか、神の忌み嫌う性質があるかを知っているからです。現に私たちの心の中にあるものが、度々口を通して出て来る言葉を思い出してみてください。怒りや憤り、悪意やののしり、その他の恥ずべき言葉を思い出してください。私たち人間は、人前に裸をさらけ出すことを恥ずかしいと思います。しかし、実はもう一つ恥ずかしいものを内に秘めています。それが私たちの心です。しかし、この心は、人には隠されているかもしれませんが、神の前には隠されていません。そういうわけで、どんなにたくさん服を着ても、私たちは皆、神の目から見たら恥ずかしい状態にいるということを今一度確認する必要があります。ではどうすればこの恥の状態から解放されるのでしょう。

3.主のみが私たちの恥を取り除いてくださる

 アッシリアがエジプトやクシュを打ち負かし、彼らを恥ずべき姿にしてしまう時、恥を見るのは彼らだけではないとイザヤは預言しました。それこそ、エジプトやクシュに今まで頼り、誇っていた国々は皆打ちのめされ、恥を見ることになるわけです。当に箴言11章2節にある通りです。「高ぶりが来れば、辱めも来る。知恵はへりくだる者とともにある。」

同じように、私たちも時として、これがあれば大丈夫だ、これこそが自分の頼るものだ、というものを持ってしまうことがあるかもしれません。自分の才能や身分、権力、更には財産、或は学歴やこれまで自分が成し遂げて来た様々な偉業を誇りとし、そこに精神的な拠り所を求めることもあるでしょう。ですから、私たちもまたあのエジプトやクシュに頼っていた人々同様、いずれは打ちのめされ、大きな恥をかく可能性があるわけです。

では一体私たちは何に頼るべきなのでしょう。私はこのことを、私のつまらない言葉で表現することはしたくありません。その代わり聖書のみ言葉を引用したいと思います。

ローマ人への手紙10章11節”聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」”この失望させられることがない、という言葉は、恥を見ることがない、とも訳すことが出来ます。この方と言うのは誰でしょう。当に復活のイエスです。私たちの罪をきよめるため、十字架におかかりになり、三日目に復活を遂げられたあのイエス・キリストに信頼する者は、だれも失望させられることがないとパウロはここで断言しています。何に信頼をおけばいいのか、何に頼って行けばいいのか、或は今まで頼っていたものの基盤が崩れたため、どこへ行けばいいのか分からない今の時代、聖書のみ言葉は変わらず私たちにこう宣言するのです。このイエスに信頼する者は、だれも恥を見ることがない、と。