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心乱される中で

2021年1月31日(日)メッセージ

イザヤ書21章1-10節

『心乱される中で』


 先週はイザヤ書20章1-6節のみ言葉を学びました。そこには、主なる神様から「行って、あなたの腰の粗布を解き、あなたの足の履き物を脱げ。」と命じられた預言者イザヤの姿が描かれていました。イザヤはこの命令に素直に聞き従い、約3年の間、人々の前で自分の裸をさらけ出します。では一体、主は何故イザヤにこのようなことをお命じになったのでしょう。それは、エジプトとクシュが、将来必ず北の大国アッシリア帝国に敗れ、多くの人々が裸のまま捕囚の民としてアッシリア本国へ連れて行かれることを、インパクトある形でユダの人々に伝えるためでした。ここまでが前回学んだ内容です。

 さて、エジプトとクシュを攻略したアッシリアは、遂にオリエントを統一したのでした。ボクシングにたとえるなら、すべてのタイトルを獲得したようなものです。しかし、やはり上には上がいます。この後アッシリア帝国は、新バビロニア王国という新たに興った国によって滅ぼされることになります。しかもこの国は、アッシリアだけでなく、預言者イザヤが住んでいた南ユダ王国をも滅ぼしてしまいました。結果多くの南ユダの民が捕囚としてバビロンに連れて行かれます。紀元前586年のことでした。

ところが、この新バビロニアも、紀元前536年、メディア王国やエラムといった東の連合国によって滅ぼされることになります。まるで弱肉強食で成り立っているキングコングの島です。

さて、今日私たちが学ぶ箇所には、新バビロニアがどうやって滅びるのかについての預言が記されています。

1節:海の荒野についての宣告。ネゲブに吹きまくるつむじ風のように、それは荒野から、恐ろしい地からやって来る。

 冒頭に書かれている「海の荒野」というのは、今お伝えしました新バビロニアを指しています。この国に、荒野から侵略者たちがやってくる、イザヤはそう告げるわけです。その際彼は、この侵略者たちを、ネゲブに吹きまくるつむじ風にたとえています。「ネゲブ」は、パレスチナ南部にあるヘブロンとカデシュの間の乾いた荒地のことです。ここは、つむじ風が起こる事で有名でした。因みにつむじ風と言うのは、規模が小さい竜巻のようなものです。では、この風はどこの国を指しているのでしょう。それが、先程お伝えしましたエラムとメディアの連合国です。

2節:厳しい幻が私に示された。裏切る者は裏切り、荒らす者は荒らす。エラムよ、上れ。メディアよ、囲め。すべての嘆きを私は終わらせる。

 ここには、主なる神様がイザヤにお店になった幻の映像が描かれています。その幻はイザヤにとって非常に厳しいものでした。見ていますと、新バビロニアに対して、裏切る者、更には荒らす者であるエラムとメディアが登場してきます。主はこれらの国々に新バビロニアを囲めとお命じになり、すべての嘆きを終わらせると告げられました。すべての嘆きというのは、これまでバビロンに脅かされてきた諸国の嘆きを指しています。では、この幻を見ていたイザヤは、一体どんな気持ちだったでしょう。この時のイザヤの心境が次の箇所に書かれています。

3―5節:それゆえ、戦慄が私の腰に満ち、子を産む時のような苦しみが私をとらえる。私は心乱れて、聞くことができない。恐ろしさのあまり、見ることができない。私の心は迷い、戦慄が私を襲った。私が恋い慕ったたそがれも、私をおびえさせるものとなった。彼らは食卓を整え、座席を並べて、食べたり飲んだりしている。「立ち上がれ、首長たち。盾に油を塗れ。」

 何と、この幻を見ていたイザヤは、様々な苦しみを覚えます。腰痛や陣痛、更には心も不安定になり、周りの音が耳に入って来なくなります。幻のあまりの恐ろしさ故に、まともにその映像を見ることができなくなくなります。その苦しみは、イザヤにとって慰めと癒しの時でもあった夕暮れの涼しい時間さえも彼を怯えさせるほどでした。ではなぜイザヤは、新バビロニアが滅ぼされる映像を見て、これほど苦しんだのでしょう。

 この理由に関しては、いくつか説がありますが、その中の一つに「捕らわれた同胞のことを心配して、恐怖にとらえられた」というものがありました。私はこれが一番現実的かなと思います。先程もお伝えしましたが、かつて新バビロニアは、アッシリアを滅ぼした後、南ユダ王国をも滅ぼし、多くの人たちを捕虜として本国へ連れて行きました。ですから、バビロニアにはイザヤの同胞たちが多くいるわけです。当然ここにエラムやメディアが攻めて来れば、イスラエルの民も巻沿いを食らうことになります。それはイザヤにとって耐えがたいことでした。ですから、イザヤとしては、イスラエルの民のためにも、新バビロニアには何とか頑張ってもらいたいところだった。ところが、敵が自分たちのところに迫っているにも関わらず、バビロニアの首長たちは何をしていたでしょう。依然として食べたり飲んだりしていました。イザヤは思わずこう叫びます。「立ち上がれ、首長たち。盾に油を塗れ。」この言葉は意訳するとこうなります。「バビロンの首長たちよ。呑気に食べたり飲んだりしている場合か。立って戦いの準備をしなさい。そうでないと、私の同胞たちがあなたたちと一緒に巻き添えを食らうことになる。」もちろん、イザヤが見ているのはあくまで幻の映像ですから、彼の声がバビロンの首長たちに届くことはありません。丁度私たちがテレビに向かってしゃべっても何も起こらないのと同じです。ところが、次の瞬間、幻を見ていたイザヤの状況が変化します。

6,7節:主は私にこう言われた。「さあ、見張りを立たせ、見たことを告げさせよ。戦車や二列に並んだ騎兵、ろばに乗る者やらくだに乗る者を見たなら、よく注意を払わせよ。」

 昔アーノルドシュワルツェネッガー主演で「ラストアクションヒーロー」というタイトルの映画が流行りました。映画好きな子どもが、映画の世界に入っていくというストーリーです。同じようにイザヤも、これまで自分が見ていた幻の世界へと引きこまれていきました。するとどうでしょう。この幻の世界で、再び主の命令がイザヤに下ります。「見張りを立たせ、見たことを告げさせよ。」これはつまり、先程イザヤが見ていた、酒を飲んで酔っ払っているバビロニアの人たちのために、敵が来たことを告げ知らせる見張り立て、その者に、自分が見たことを告げさせなさい、という意味です。ただし、敵がやってくるのが見えた際、もし彼らが二列に並んでおり、ろばやらくだに乗っているのを見たなら、よく注意を払わせなさいと主はおっしゃられました。何故でしょう。実は、敵が二列に並んで、ろばやらくだに乗って来る時と言うのは、ある意思を表明していました。それはこのような意思です。「バビロニアの諸君、我々エラムやメディアの兵士は、その気になれば諸君を一網打尽にできる。しかし、もし諸君が素直に降伏してくれれば、我々も無駄な血を流さなくて済む。実際私たちは、戦うための態勢ではやって来ておらず、二列になって、ろばやらくだを連れて来た。だから素直に降伏せよ。」このようなメッセージが、二列でやって来る騎兵と、ろばやらくだに乗って来る兵士たちの姿には込められているわけです。でも、もしこの時見張りが、敵の姿をよく見もせず、首長たちに、「急いで攻めて来る敵を攻撃してください」などと報告したとしたらどうでしょう。両国の衝突は避けがたいものとなります。無駄な血が流されます。だから主はイザヤに、あなたが立たせる見張りには、よく注意を払わせよとお命じになったのです。ではこの見張りはきちんと自分の職務を果たしてくれるのでしょうか。

8,9節:その人は、獅子のように叫んだ。「主よ。私は昼はいつも見張り場に立ち、夜ごとに自分の物見のやぐらについています。見てください。今、戦車や兵士、二列に並んだ騎兵が来ます。彼らは互いに言っています。『倒れた。バビロンは倒れた。その国の神々の、すべての刻んだ像も地に打ち砕かれた』と。」

 この見張り人は実に忠実な人物でした。彼は昼も夜も見張り台や物見やぐらに立ち、敵がどのようにしてやってくるのかを見張っていたようです。そして、遂にこの見張りが叫び声をあげます。それは獅子のような声でした。彼は言います。「見てください。敵の兵士がやって来ます。でも、彼らは二列に並んでやって来ます。しかも、彼らは互いに『倒れた。バビロンは倒れた。その国の神々の、すべての刻んだ像も地に打ち砕かれた』と言っています。」見張りが見たのは、新バビロニアに対して、降伏せよというメッセージを暗に発している兵士たちの姿でした。それにしても、なぜこの兵士たちは、戦う前から互いに、「バビロンは倒れた」などと言っていたのでしょう。それは、この兵士たちが、戦う前から既に自分たちの勝利を確信していたからに他なりません。丁度何かのスポーツの大会で、戦う前から既に勝利を確信していが選手が、委縮している対戦相手を見て思わず「勝ったな!」と口に出すのに似ています。そういうわけで、見張りが聞いた兵士たちの言葉というのは、戦う前にすでに語られた勝利宣言でもありました。

さて、見張りの言葉を聞いたイザヤは、再び幻の中から現実の世界へと引き戻されます。彼はこの預言をこう締めくくっています。

10節:踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ。イスラエルの神、万軍の主から聞いたことを、私はあなたがたに告げたのだ。

 踏みにじられた私の民、内場の私の子、というのはイスラエルの民のことです。彼らは将来、バビロンに踏みにじられ、打ち叩かれることになる民です。そんな彼らにイザヤは、いずれこのバビロンも、更に強い国の圧力に屈することになる、そう預言したのでした。

 以上が今日のみ言葉の解説となります。では、今日のこの箇所から、私たちは何を神の言葉として受け取ることができるのでしょう。全部で三つあるのではないでしょうか。

1.主は予期せぬ方法で嘆きを終わらせる

 イザヤが見た幻について今一度思い起こしてください。彼が語ったのは『海の荒野』である新バビロニア王国の滅亡です。それは、ネゲブに吹きまくるつむじ風のように突然訪れると彼は預言しました。皆さん、竜巻と、つむじ風との違いは何だかご存知でしょうか。我が国のことを考えますと、竜巻は、夏から秋にかけて起こるもので、9月が最多となります。つまり、いつ起こるかある程度予測できるわけです。ところがつむじ風に関しては詳しいことは分かっていません。いつでも、どこでも、起こる可能性があります。つまり予測不可能だということです。バビロニアの滅亡はつむじ風的に訪れるものでした。同時に、この国の滅亡は、これまでバビロニアに苦しめられてきたすべての国々の嘆きが終わることを意味します。

 現代に生きる私たち一人一人の人生にも新バビロニアのような存在が現れるかもしれません。私たちを、嘆きで満たす存在が現れるかもしれません。ちなみに、この嘆きという言葉には全部で4つの意味があります。一つ目は、深く悲しむこと、二つ目は、ある物事に対して、悲しみ憤ること、三つ目は思い通りにならなくて、ため息をつくこと、そして最後が切に願うことです。こうした状態に陥った経験が、皆さんにも一度か二度はあると思います。愛する人に死が訪れることで、理不尽なことを言って自分を苦しめる人が現れることで、順調に進んでいると思っていた計画を中断させる問題が生じることで私たちは深い悲しみに突き落とされます。

詩篇にもこうした嘆きで、今にもどうにかしてしまいそうな人物の証が出て来ます。詩篇6篇6節見てみましょう。「私は嘆きで疲れ果て夜ごとに涙で寝床を漂わせ、ふしどを大水で押し流します。」この詩篇記者は、自分の嘆きに疲れ果て、毎晩寝床で大量の涙を流しながら泣いていました。これはちょっとオーバーな表現ではないかと思う人は、まだ本当の嘆きを味わったことがない人かもしれません。本当に深い悲しみに沈んでいる人は、その涙でティッシュ箱をいくつも空にします。しかし、聖書の中には、主がこうした嘆きを終わらせてくださったことを経験した人物の告白も記録されています。詩篇30篇11節を見てみましょう。”あなたは私のために嘆きを踊りに変えてくださいました。”

 私たちの人生には、予期せぬことが起こります。こうしたことの中には、私たちを深い悲しみに陥れるものもあります。嘆かずにはおれないこともあります。けれども、主はご自分に信頼する者の嘆きを、予期せぬ形で取り去ってくださいます。それだけではありません。かつて動けなくなるほど嘆いていたあなたを、踊らずにはいられないほどの喜びで満たしてくださるのです。

2.常に戦いのために備えておく

 主がイザヤにお与えになった幻に登場してきたバビロンの首長たちのことを思い返してみましょう。彼らは、つむじ風であるエラムやメディア人が迫っていた時、どのような状態にあったと書かれていましたか。食卓を整え、座席を並べ、食べたり飲んだりしていたと書かれていました。端的に言えば酔っぱらっていたということです。イザヤも思わず「立ち上がれ首長たち。盾に油を塗れ。」と叫んだほどでした。彼らの問題は一体何だったのか。それは、危険が迫っていることを知らなかったことでしょうか。そうではありませんでした。彼らの問題は、いつでも戦える体制を整えておかなかった点にあります。

 ロイドジョンズはかつてこう述べました。「キリスト者生活における失敗や不幸の究極的原因は、キリスト者生活の本質を理解していないことである。私たちはみな、ロマンチックな幻想を抱いてキリスト者生活を始める。その結果、遅かれ早かれ失望を味わうようになる。キリスト者になれば全く問題がなくなると思っていたら、やがて突如として、多くの困難や試練に取り囲まれ、すっかり落胆し、福音のメッセージについて疑問を抱くことにもなりかねない。聖書は、私たちは大きな戦いの真っただ中に置かれている、と教えている。」彼が言うように、キリスト者生活に入ると言うことは、常にハッピーな人生を送れるようになる、何も問題がない、すべてがうまくいくと言った御利益的なものではありません。キリスト者生活に入るということは、霊的な戦いに入ると言うことです。では、この戦いは何に対する戦いか。悪霊やその他さまざまな霊との戦いです。パウロ自身もこう言っています。エペソ人への手紙6章12節”私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。”私たちは、こうした悪霊の存在を無視してしまうことで、霊的な備えをまったくしていないことがあります。これは非常に危険な状態です。では、この悪霊に対抗するために私たちは、どのような備えをする必要があるのでしょう。14-18節にこうあります。”そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことが出来ます。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。”このみ言葉にある通り、霊的な戦いに備えるために必要なものは、聖書に記されているあらゆる霊的賜物です。普段からこうした様々な霊的武具を磨きつつ、すべての聖徒たちのために祈ること、これが霊的戦いに備えるということであります。

3.キリスト者は真の勝利を宣言する兵士である

 イザヤが幻の中へと引き込まれた際、その中で彼が立てたあの見張りが聞いた言葉を思い起こしてください。彼は、エラムやメディア王国の兵士たちが互いに、「倒れた。バビロンは倒れた。その国の神々の、すべての刻んだ像も地に打ち砕かれた。」と言う声を聞きました。戦いを交える前に、彼らは既に勝利を宣言していました。

 私たち信仰者は、キリストの兵士として、日々様々な戦いを経験します。現実的な戦いに始まり、その裏にある霊的な戦いを経験します。しかしながら、いずれ私たちは、最後の敵と向き合うことになります。それが死です。この死に打ち勝つことができる人は一人もいません。一人を除いては。それが復活の主イエスです。このイエスは、私たちの罪をきよめるため2000年前十字架におかかりになり、三日目に死を打ち破られました。聖書は、このイエスに信頼する者もまた、死に対して勝利することができることを約束しています。実際パウロは、再び主イエスがこの地上に来られた際に起こる事をコリント人への手紙第一15章26節で明確にしています。”最後の敵として滅ぼされるのは、死です。”キリスト者は既に、すべての戦いに勝利した兵士でもあります。しかし、その勝利は決して私たちが自分の力で勝ち取ったものではありません。死を打ち破られたイエス・キリストの勝利に、私たち自身が入れられているだけです。この一週間も、真の勝利を宣言する者として、また、キリストの兵士として世に出て行こうではありませんか。